Garten -05 「うーん、なかなか!」 真澄の姿が中庭から消えてしばらく後、サシャはティーカップを手に、うん、と強く頷いた。 突然のサシャの言葉に、まったく訳が分からないシルヴィオは眉間に皺を寄せる。 「……は?」 「真澄ちゃんのことだよ。あ、もしかして本当に用事があったと思ってるわけ?言っておくけど、今のシルヴィオの目線追って退席して行ったんだからね。それにしても文字の書き取りかあ……そんな予定入ってないだろうに」 早口でまくし立てた後、くすくすとサシャは可笑しそうに笑いを噛み締める。 嘘を付いていたようには見えなかった、と内心シルヴィオは舌打ちした。 それならばそうだと言えばいい。何故そんなに回りくどいやり方をするのか、解せなかった。 「真澄ちゃんの国、戦争無いんだって」 唐突に言われて、シルヴィオは驚くことも今更な気がしたのでただ黙っていた。 「いいね、どうしたらそんな世界が出来上がるんだか……。ま、そうなれば私は失業しちゃうけど」 サシャは冗談めいて笑って見せたがシルヴィオは笑わなかった。 周りに誰の姿も無いことを気配で測ると、サシャの顔もすぐに彼と同様真剣なものになる。 「コルネリアとロゼリスが、落ちたって?」 「ああ」 冷たい風が辺りに遠慮なく吹き渡った。 真澄の片付けたティーカップが、テーブルの片隅でかたかたと小さく揺れている。 サシャの瞳がすうと、戦場を前にした時と同じものになってシルヴィオを見る。 こういう時のサシャの雰囲気はいつもと百八十度違ったものになる。昔からの長い付き合いから、それだけは自信を持って言えることだった。 シルヴィオはサシャの視線を受けながら、既に砂糖が完全に溶けた紅茶を一口飲んだ。 「各都市の駐留兵は?」 「勿論一流の兵を配備してある、簡単に負ける訳が無い。だがフロールの攻め方が卑劣だ」 「ああ、『例の問題』ね」 フロール国に例の資源さえ無ければ、完全にラルコエド国が優勢だった筈だ。 いや、そもそも大国であるラルコエドに攻めようなどとは思わなかっただろう。 国土と兵力と策略ではこちらが遙かに上手、だがフロール国にはそのハンデを埋める最終兵器がある。 恐らく今までの二都市、コルネリアとロゼリスもその点で苦戦したに違いない。 街が荒れていないことを祈る。折角この数年で復興を果たしてきたのだ、ここで崩れてはたまったものではない。 「今、敵はどこまで?」 「第一都市エルミーラに精鋭進行中だと」 「増援はどのくらい送った?」 「エルミーラには五万の兵がいる。ここからは十数万送った。コルネリアとロゼリスから撤退してきた兵を合わせると約二十万だ」 「足りるかねえ」 「……足りなきゃ笑えねえ」 挑戦的なサシャの言葉に、シルヴィオも自嘲気味に笑ってから吐き捨てた。 「最悪、ここまで来るだろうな」 シルヴィオの呟きに、サシャもすっかり黙り込んだ。 それはもはや既知の事実である。二都市が陥落されたとあって、既に事は尋常ではない。 敵の進軍を抑えられるものなら北の都市、コルネリアで止めることは出来た筈だ。しかし敵は第二都市を落としたばかりか、休む間もなく次の目標、第一都市のエルミーラを狙い進んでいる。 どうにかしなければならない。最悪の場合敵の王都進軍だが、それはなんとしてでも避けたい。 そうして居心地の悪い静寂を破ったのは、シルヴィオだった。 「サシャ。国の言い伝え、まだ憶えてるか?」 新たに紅茶を注ぎ足していたサシャは、ゆっくりと顔を上げた。 今のサシャの表情は、いったいシルヴィオはまた何を口走っているのだろうといういかにも不思議そうな顔だった。それでもサシャは少し躊躇った後で言った。 「そりゃあね。生まれた時から親に何度も言われ続けてきたら誰でも覚えるだろうよ。で、あれが何だって?」 「本当だと思うか?」 シルヴィオの問いに、はは、とサシャは不意を突かれたように笑い出した。 「まさか……信じてるって言わないでよ。あれは単なる『言い伝え』に過ぎない」 それでもどこか腑に落ちない様子のシルヴィオを見て、サシャの笑いはまたもすっかり消え失せたようだった。 あーと唸りながら、サシャはふうと一つ浅い溜め息を付く。 「仮に今のこの状況が一大危機だとする、いや一大危機だ。けど数年前、前国王がお亡くなりになられたあの大戦は今よりも長かったし大規模だった。それなのにあの時、ガラヴァル一匹は愚か救世主さえ姿を現さなかっただろう。いいか、あれは『言い伝え』だ、シルヴィオ。昔の古い因習に頼っていると、今度こそ死ぬぞ」 サシャの言葉で数年前のジルヴィラート国との大戦の凄惨な光景が、閉じた目蓋の裏に浮かんだ。 爽やかな空気が一瞬にして埃と汗にまみれた、戦地特有の臭いへと変化した。 自分は何も出来なかった。父であり国王であったクラウスは、最後の戦いで戦死した。 今でもはっきりと覚えている。敵の身体を薙ぎ払ったあの感触、返り血を浴びる瞬間、どれもが鮮烈に脳裏を過ぎる。 その時突然、クラウスの姿が頭に浮かんだ。剣を突き立てられてふらりと落馬した、信じられないあの記憶。 「んなこと、分かってるよ」 今蘇ってきた記憶を頭の中から追い出すように、強く強く呟く。 サシャはそんなシルヴィオの心中を察したのか思い出したように、人差し指をぴっと立てて上を指しながら言った。 「もしかしたら彼女が?」 「どこから城に侵入してきたのか未だに分からない。探りを入れるためにあいつ専用の侍女を数人付けてるんだが効果無しだ」 自分でもこの時、何を言っているのか分からなくなった。 無闇に今も真澄を疑っている訳ではない。ただ彼女をスパイとして疑い続けていないと、その先の答えはほぼ一つに決まってしまう。 それを認めた時、世界のどこかに亀裂が入ってしまうようなそんな気がしていた。 真澄は違うと思い込んできた。だが、そろそろ限界なのかもしれない。 恐らく真澄自身は気付いていない。しかし彼女が呼ばれる時はそう遠くない。 シルヴィオは意を決して、この時、それまで胸の内に溜め込んでいたことを初めて他人に口にした。 「あいつがこの世界に来た時期が、偶然だとは思えない」 ラルコエド国が建国された時にどこからともなく現れて、国をまとめるために民を導いたとされるガラヴァル。 凛々しいその姿と特徴的な鳴き声は、人々の信仰崇拝を一身に仰ぐに相応しいものだった。 そう言えばいつ頃からか、真澄はガラヴァルのことを話すようになった。 真澄が例の存在と仮定すると、それではいったい異国出身の真澄がどこでガラヴァルの存在を知ったのかが気になる。 ガラヴァルの伝説は国内だけで囁かれる、他国には口外無用の最重要機密事項だ。 「よし、この話はここで一旦打ち切ろう。まずは王都に攻め込んでくる場合を想定して騎士団も各々腕を磨かせないと」 サシャは明るくそれだけ言うと徐に立ち上がった。 真澄と同じくテキパキとティーカップを片付けていくサシャを見上げて、シルヴィオは苦笑する。 「……第一切込隊隊長の分際でよく言うな」 「後続のために先陣を切るからね、多少は意気込んでおかないと。前衛も大変なんだよ。殉職率なんて他の部隊に比べたらダントツ」 ひらひらと手を振り去って行くサシャの後ろ姿は、とても数年前まで怖気付いていた人間とは思えない。 実際サシャは、第一切込隊隊長の職に就いてから一度だけ、隊長を降りたいと言ってきたことがあった。 切込隊ではないどこか後続の部隊へ移動したいと嘆願書を出したこともあった。 だが切込隊は優秀な人物でなければ務まらない。城内でも切込隊は諸刃の剣の部隊と言われる。 サシャはその殉職率が高い隊の隊長を担ってから、今まで幾度と無く仲間の死に遭い、悲しみを乗り越えて来たに違いない。 しかしだからと言って簡単に人間を異動させることも良策とは言えない。 接近戦型で瞬発力のあるサシャは他にも類を見ない戦闘力を誇っている。 そんな人間を前線から外すということはすなわち、最初のぶつかり合いで負けを覚悟の上で本戦を戦うも同然だということを示唆している。 サシャはここ数年で強くなった。自分も負けてはならないと思う。 幼かった頃、サシャが年上だということで何かにつけて慕っていた、在りし日の自分の姿が蘇る。 「シルヴィオ、明後日の模擬試合忘れないでよ」 遠くで叫ぶサシャの声は、シルヴィオの暗い雰囲気を消し去るくらいどこか朗らかだった。 BACK/TOP/NEXT 2008/03/01 |