Garten -04 「ごめんねー!遅くなっちゃった」 それはまるで駅前で待ち合わせしていた女子大生のような笑みで、サシャは既に中庭のテーブルで紅茶を淹れている真澄に向かって、ひらひらと手を振りながら駆けてきた。 真澄はまだ熱いティーポットを手に顔を上げて、嬉しくてたまらない気持ちを抑え軽く頭を下げて挨拶をする。 ああ、いつ見ても羨ましい輝くほどの美貌。神様は不公平だ、と真澄はサシャの容姿を見詰めながら思った。 しかしその綺麗な白い額に薄らと汗が滲んでいることに気付いた真澄はこっそりと首を傾げた。 そこまで全速力で約束通り中庭に駆け付けなくてもよかったのだが。いや、だがまさか、サシャに限ってそんなことは無いだろう。 「わ、このお菓子どうしたの!?」 「さっきお湯を貰いに調理室へ行ったら、料理場の人からついでにって貰っちゃったんです」 「さすが真澄ちゃん!ちぇ、私の時はくれなかったくせにー」 テーブルの真ん中には大きな丸い白のプレートがあり、その上に何種類かの焼き菓子が山積みにされている。 サシャはその内の一口ほどのケーキをひょいとつまんで美味しそうに頬張った。 「運動……していたんですか?」 「うん。と言ってもまあ、剣の素振りとか練習試合とかかな」 サシャは騎士団に属している騎士だ。やはり騎士や兵士にはそれ相応の日々の鍛錬が必要になるのだろう。 真澄の横の椅子にすとんと腰を落としたサシャは、ぱたぱたと手団扇を作って首元を扇いでは暑い暑いと唸っている。 「最近は特に練習が大変でね、アンダーシャツも変えてきちゃった。まったくフロール国も容赦無い……」 そこまで言って、サシャははっとしたように目を見開いて言葉を切った。 まずい、と言う表情をしたサシャの瞳が、ちらりとこちらを見る。 「あ、知ってます。戦争のこと」 辺りに誰もいないことを悟って真澄はサシャに顔を寄せて小さく囁く。 途端にサシャは驚いた顔をして、それからすぐに真剣な険しい顔付きになった。 「……シルヴィオが話した?」 「違うんです。えっと何ていうか、その、誰かが話しているの聞いて……」 思わず、ガラヴァルに聞いたから、と口走りそうになったところを素早く言い換える。 いつだったかシルヴィオにガラヴァル云々を話した時、彼は相当驚いていた。きっと自分が知っていては何か不味いことがあるに違いない。 真澄はそろそろとサシャの顔色を窺った。 今の返答は少しぎこちなかったような気もするが、どうやら納得したらしいサシャの顔を見る限り不審には思われていないようだった。 サシャはまた、今度は違う種類のケーキを頬張った後で何度も何度も首を縦に振った。 「そっか、聞いちゃったか。でも王都まで攻めてくるってことはないかな」 「そうなんですか?」 「ラルコエド国軍を舐めてもらっちゃ困るよー?私も隊長になるためにそれはもう文字通り血の滲む努力までしたしね」 真澄が淹れたばかりのティーカップをサシャに差し出すと、サシャは有難うと微笑んだ。 「戦争、嫌い?」 唐突に聞かれて、真澄は横のサシャの端整な顔を見詰め返した。 サシャはにこにこと感情の読めない瞳をこちらに向けてくる。 それが自分の答えを要求されているのだと分かると、真澄の心は何故かいよいよ焦った。 「あ、嫌いは嫌いなんですけど、あたしの国には戦争が無かったから、ええと実感が沸かなくて……」 しどろもどろになりながら、この場合なんと説明すれば理解を得られるのかと思案したまま言葉を紡ぐと、サシャはなにか新しいものを発見したかのような顔付きになった。 「へえ?戦争無いの?」 「はい」 「じゃあ宣戦布告を受けたらすぐ降参しちゃうの?」 「え、えーっと……!?」 サシャは時々騎士らしい質問を投げかけてくる。 それが自分とサシャが違う立場で違う仕事をしている人間なのだと気付かされるきっかけになる。 「あ、分からないよね。ごめんごめん」 再びティーカップを口元に持っていったサシャは苦笑した。 よく外国に行くと言葉が通じないことにもどかしさを覚えると聞くが、今の気持ちはどちらかと言うとそれに近かった。 心の中にある、何かもやもやとしたものが伝え切れなかった、という後悔が色濃く残っている。 もう少し色々なことを勉強しておくべきだった。この世界に来てからそんなことばかり考えている。 そんな様々なことを考える真澄の考えを知らないであろう、傍らでゆっくりと紅茶を飲んでいたサシャは、ふと何かを思い付いた顔をして「あ」と小さく叫んだ。 「あそこに建物あるの、見える?」 サシャの細い指は今、幾つかの城壁を越えたその向こうを指している。 白い壁に頭を出すようにして、英国風の城から独立した建物がやや離れた場所にあると分かる。しかしいったいそれが何だと言うのだろう。 「この中庭もね、前は騎士団の練習場だったんだよ。今はこうやって憩いの場になってるけど、何年か前に城内数箇所に散らばっていた練習場をあそこに全部持っていったの」 へえ、と感心しながら、真澄は思わず足元を見回した。 今のこの場所には綺麗な緑の芝生が広がっていて、おまけに少し離れた所に噴水までもが設けられている。 こんなに整った緑溢れる場所が、少し前まで剣がかち合う場所だったとはとても想像できない。 サシャは突然、すっと人差し指を口元に持ってきた。 只ならぬ雰囲気に真澄はサシャの方へ、不思議に思いながらも顔を寄せる。 「明後日の午後三時、ちょっとだけ稽古場に見に来ない?」 「何かあるんですか?」 「ちょうどシルヴィオと私の手合わせが入っててね。普段は多分見られない恰好いいシルヴィオが見れるよ。本物の剣使った模擬試合だから」 にこにこと、サシャの顔は至って楽しそうだ。 しかし真澄は今のサシャの言葉の後半になにやら含みを感じて、わざとらしく数回咳払いをする。 「……あの、試合観戦は喜んで行きますけど、あたしはシルヴィオと特別親しいって訳じゃ……」 「成程な、茶会の相手ってこいつか」 「えっ!?」 背後から突如現れた低い声に振り返ると、そこには今まさに話題にしていた呆れた表情のシルヴィオが立っていた。 さらさらと流れるように美しい彼の銀髪が太陽の光を受けて透けている。 「シルヴィオ!?」 シルヴィオは真澄の頭をぽんと一回軽く叩いてから、ぎろりとサシャを強く睨んだ。 だがサシャは少しもそんな彼の強い視線を気に留めてはいないらしく、いつも通りの美しい笑みを浮かべている。 「お前、余計なことをこいつに話さなかっただろうな」 「真澄ちゃんはいい子だよ。誰かさんと違ってー」 サシャは真澄を背後からぎゅっと抱き締めながら、これ見よがしにシルヴィオに向けてにっこりと満面の笑みを顔一杯に広げた。 途端にどこからかほんのりと、可憐な花のようないい香りがした。 真澄はそのままうっとりとサシャの腕の中で午睡しそうになってしまったが、目の前の現実がそうはさせなかった。 シルヴィオの背後から滲み出るオーラが、いつも以上にどす黒くなり始めている。 それに気付いた時真澄はぎょっとして、心臓はばくんと破裂寸前まで鼓動した。 サシャのシルヴィオ遊びにはどうも肝が冷える。 真澄は慌ててサシャの腕から抜け出て椅子に座り直し、表面だけの笑顔を取り繕った。 困った時にはとりあえず極上の微笑みを。侍女の一人から教わった、素晴らしい教訓である。 「え、えっと、シルヴィオも一緒にお茶どう?」 シルヴィオは一瞬躊躇った、かと思うと、重い腰を真澄の傍の空いていた椅子にどかと落ち着けて足組みした。 「茶」 「なんでそんなに偉そうな態度を……いや、偉いけど……」 今までなら彼のそんな態度が癪に障るのだが、ようやくここに来て慣れてきたらしい。 足を組んで座るシルヴィオの姿を横目に、真澄はティーポットの湯がまだ冷め切っていないことを確認してから、空いていたティーカップに紅茶を淹れ始める。 「シルヴィオ、お砂糖いる?」 「三」 「はい、三個ね……って、三つも!?このティーカップ一つに!?うわ、甘そう……」 「今日はそういう気分なんだよ」 どういう気分なんだ、と内心彼に鋭く突っ込む。 真澄は渋々ながらも言われた通りに角砂糖を三つ、ティーカップの中へ放り込んでから金のティースプーンで執拗に掻き混ぜた。 しかし本当に三つも角砂糖を入れた紅茶など飲めるものなのだろうか。 混ぜながら不安になった真澄は、ちらりとカップの底を覗き込む。 案の定、底には透明な粒が溜まりに溜まっている。これをもし差し出されたなら、絶対に飲めないだろうなと思った。 「いつまで掻き混ぜてるんだ」 ひょい、とシルヴィオが横からまだ混ぜ途中のティーカップを奪い取ったので、真澄は慌てて手を伸ばす。 「あー!まだ飽和状態になってないのにー!」 「うるさい。その内溶けるだろ」 「駄目!溶け残りが許せない!」 「……お前の矜持はどこにあるんだ」 真澄はティーカップを取り返さんとシルヴィオの腕にしがみ付く。 しかし彼はもう片方の空いている手で真澄を押し退けながら、そんなこともお構い無しに淡々と紅茶を飲んで一息付いている。 こういう時に自分と彼との力の差が歴然になってしまうのは何だか腹立たしくて悔しかった。 シルヴィオの飲んでいる紅茶は絶対に甘い、そう言い切る自信がある。そして溶け残りがくどいに違いない。 真澄は尚も諦めずにティーカップに手を伸ばす。するとくすくすと小さい忍び笑いが耳をくすぐった。 「強いね」 「え?あたしが、ですか?」 シルヴィオとのカップ争奪戦が一時停止になったような形で、真澄はサシャの顔を驚いて見た。 サシャは腹を抱えながら、それでもなんとか堪えるために体勢を維持しようとしている。 真澄はきょとんと数回瞬きしながら、サシャのそんな言葉を不思議に思った。 どちらかと言うと、シルヴィオの剣幕に臆さないサシャの方が強いと思うのは自分だけだろうか。 真澄はシルヴィオの手加減を知らない平手打ちを額に喰らってから、渋々と自分の席に座り直した。 「そんなことないです。シルヴィオの助けが無かったら、今頃路頭に迷ってたし」 腹が立つけれど、と付け加えるとサシャはおかしそうに笑いを噛み締めていた。 すると今度はシルヴィオの鋭い視線が真澄を射竦める。 「と言うか、何でお前は国王の俺にはタメ口で、そこらの隊長には敬語なんだよ」 「だってサシャさんは人生の先輩だもの」 「俺も先輩だろうが」 「……それとこれとは別で」 さっと視線を外す真澄の顎を、くいとシルヴィオの指が素早く伸びてきて上に上げた。 「あ?なんだって?もう一度言ってみろ」 「それって訂正しろって言ってるようなものじゃない!」 シルヴィオの行動にいちいち驚く自分が悔しい。 この世界に来て既に二週間が経とうとしているのだ、そろそろ慣れてもいいものだと自分でも思う。 だがこの世界で暮らせば暮らすほど、周りの雰囲気は謎に包まれるばかりだった。 右肩上がりに増え続けていくこの世界独自の慣習や出来事。それらに無意識の内に翻弄されざるを得ない。 シルヴィオにしてもそうだ。彼の真意や考えていることなどは未だに掴めなかった。 「いいなあ、シルヴィオってば真澄ちゃんとそんなに親しげに。私と少しくらい睦んでくれたっていいのに」 一人蚊帳の外にされていたサシャが、ふうと大袈裟に溜め息をつきながら顔を背ける。 「断る」 「もう照れちゃって。はい、シルヴィオ。あーん?」 「お前!またいらん噂が立つだろうが!」 サシャがテーブルの上の焼き菓子を一つ、シルヴィオの方へ差し出したが、物凄い剣幕でシルヴィオがそれを返したためサシャはまたもむくれた。 しかし二人の間に挟まれている真澄にとってこれほど心身ともに堪えるものは無い。シルヴィオの怒声が自分を越えてサシャの方に向けられたため、耳がキーンと甲高く唸っている。 サシャはむくれたまま、ケチー、と口を尖らせてぱくりと一口で少し大きな焼き菓子を頬張った。 だが真澄は今のシルヴィオの言葉を聞き逃さなかった。 薄らとそんな気はしていたが、聞くと悪いかと思ってなかなか聞き出せなかったのだ。これはシルヴィオのことを知る滅多にない好機である。 「やっぱりサシャさんとシルヴィオってそんな仲なんですか!?」 シルヴィオが何か口を開く前に、サシャがうきうきと身を乗り出してきた。 「ふふ。昔に数回ね、残念ながら噂だけど。すぐにシルヴィオがそんなことないって宣言出しちゃったんだよねえ」 「当たり前だろ。誰がお前と!」 「ああ嫌だ嫌だ。気の固い国王様のお相手だけでも疲れるわー」 ひらひらと手を横に振って、心底嫌そうな顔をしてみせるサシャに真澄は思わず吹き出して笑う。 本当にサシャがいるだけで場が和む。それに今までに無いくらい楽しかった。 シルヴィオと二人切りの気まずい空気を知っているからこそ、この時間は宝石よりも貴重なもののように思えていた。 それにこの開放感溢れる中庭という場所に、お茶会というオプション付き。 黙っていれば美男子に見えるシルヴィオと、黙っていても美しさが滲み出るサシャとを交互に見比べてから真澄は満足に頷いた。 これだけで十分だ。ようやくまともな幸せが訪れたのだ、わざわざ無碍にするほど気が回らない人間ではない。 シルヴィオの紅茶云々はこの際、仕方なく置いておこうと、隣で甘ったるいであろう紅茶を口に運ぶシルヴィオを横目で追いながら真澄は心の中の葛藤を抑え込んだ。 だがそこで突然サシャはティーカップを口元から外すと、小首を傾げてシルヴィオを見やった。 「で?シルヴィオ、どうして中庭に?騎士団の団長にでもご挨拶?」 「……ああ」 シルヴィオの視線が、躊躇いながらもほんの一瞬だけ自分の方へ向いた。 いつものように威嚇している訳ではなく、呆れている訳でもない。 こういう時の彼の姿を見たことは無い。だが、似たような状況とそういう視線を送る時の意味を自分は知っていた。 「ごめんなさいサシャさん!あたしこれから文字の書き取りを見てもらう約束が入ってて!」 「あれ、そうなの?」 真澄は何の前触れもなしにがたんと席を立ち上がると、そそくさとティーカップをトレーの上に片付けた。 サシャは驚きでパチパチと瞳を瞬いている。 「あ、あの、今度またお茶してもいいですか?」 「うん。いつでもどうぞー」 にっこりと微笑むサシャの顔に安堵する。 ほっと胸を撫で下ろしながら、真澄はやや小走りで、何階も上のシルヴィオの部屋の隣にある自分の部屋へと急いだ。 「有難うございます。じゃあ」 サシャはひらひらと顔の横で、いつまでもいつまでも手を振って見送ってくれた。 シルヴィオは無関心に、こちらにはいつまでも背を向けたままだった。 分かっている。真澄はこの瞬間、しっかりと胸に刻み込んだ。 シルヴィオはたまに分かり易い行動をする時がある、それがあの仕草だ。 広い廊下をただ歩きながら、真澄はサシャが中庭に来た際に口走っていた「フロール国」という名の隣国を思い出した。 BACK/TOP/NEXT 2008/03/01 |