辺りにゆっくりと、それでも確実に呑み込むように黒を纏った夕闇が迫っている。
夜の訪れを告げる冷たい風がそろりと頬を撫でた。枝を離れた木の葉がどこからかやって来て舞っている。

さっきまで真正面に座っていた、笑顔と強い瞳が印象的な少女は既にいない。
サシャはすっかり冷めたティーカップをくるくると回して白い城壁の向こうの空を眺めた。

(普通の子……)

恋愛ごとに興味の無いシルヴィオが気にかけているから、どんなに色気があって妖艶な女かと思ったら、まだ本当に少女ではないか。
今度彼に会ったら何とからかって遊んでやろう。近い未来を想像してサシャは心の中で小さく笑う。

しかし薄らと、シルヴィオの心情が読み取れるようなそんな気がした。
真澄のあの一見弱そうで思いの外強い意思はきっと、今までの彼の考えに相反するものだ。だからこそ気になったに違いない。
それに最近の彼の身に纏っている雰囲気、どことなく穏やかになったのはきっと彼女のお陰だ。

何かが少しずつ動き始めている。色々なものが目に見えないところで、着々と。
サシャは大きく伸びをしてティーカップをテーブルの上に置いてから、ゆっくりと騎士団の稽古場へと続く道筋に戻った。









Garten  -03









なんて清々しい朝なのだろう。
こうして朝早くから叩き起こされて雑務をやらされていようとも、お前は行動が遅いなどと罵られても、無意識に顔がにやけてしまう。

高揚する気分とは反対に、目の前に一定の速度で差し出される書類。それらを指示された通りに区別しながら、真澄は明後日の方向を見詰めた。
そこにあったのは高く広い天井だが、まるでそれらが視界に入らないのだから不思議だった。

だがいつもと違う真澄のどこか落ち着かない様子が彼の目に留まらなかった筈がない。
真澄が立つ横には大きい執務用の机がある。そこに腰掛けているのは繊細な銀髪が眩しいラルコエド国王だ。
彼はしばらくしてから、ふと気付いたように顔を上げた。

「……なんだ?その気持ち悪い顔」

眉根に皺を寄せてこちらを見上げるシルヴィオの顔に気付いて、真澄はなんでもないと言う風に肩を竦めてみせた。

「ほれ、これはゴミ箱行きだ」

シルヴィオから乱雑に一枚の紙を手渡されて、真澄はそれを傍にあった「廃棄用」の箱に投げ入れた。
更に数枚の、細かな文字がびっしりと書き連ねてある紙を手渡した後で、シルヴィオは再度口を開いた。

「城でめぼしい物でも見つけたか?やらねえぞ」
「残念、ハズレ」

シルヴィオはいったいどこまで自分がスパイだと思っているのだろう。
あまりの疑い深さにそろそろ呆れてくる。

「実はね、綺麗な友達ができたから嬉しくて」

こほん、とわざとらしく咳をして勿体つけてまで言ったというのに、シルヴィオは特に関心を持つでもなく、ただ淡々と手元に山積みになっている書類を手に取っていく。

「そりゃよかったな。と言うか、そいつも物好きな……侍女か?秘書か?」
「ううん。騎士団の人」

やはりシルヴィオと世間話をすること自体無理な話だ。サシャとの、あの女同士の会話の素晴らしさといったらこの比ではない。
ああ、早くこの雑務が終わればいい。そして恐らく迷惑に思われてしまうだろうが、少しだけ、少しだけでいいからサシャの顔を見に行きたい。
自分より幾つか年上の女騎士。真澄の世界に換算すると大学生くらいの歳だろうか。

どうやらすぐに自分の世界に入って物思いに更けてしまったため、気付かなかったらしい。
隣で多くの用紙を捌いていたシルヴィオの手は、今やぴたりと完全に止まっていた。
見事な銀色の髪の間から銀色の切れ長の瞳がこちらを見上げる。

「……男?」
「は?女だってば。多分シルヴィオも知ってるんじゃない?すごく綺麗な人なの」
「さあな、騎士団つっても大所帯だぞあそこは」

今、一瞬だけ走った奇妙な彼の視線の真意は何なのだろう。
真澄はシルヴィオの隣にいることがどこか気恥ずかしくなって、無意識に彼の傍から一歩遠ざかった。
すっかり元の調子に戻ったシルヴィオは、さっきとまた同じように書類を次から次へと手に取っている。

「えっとそれで、今度またお茶会するの」
「優雅なこったな」

駄目だ、これは。
真澄は今度こそシルヴィオの無愛想に完全に溜め息を付いた。
もしかしたらサシャはこう言ったシルヴィオの無愛想なところや融通の利かない性質が気に食わなかったのかもしれない。

確かに彼は気難しい性質の持ち主ではある、そこは同意できる。
けれど時折見せる国王ではない時の、一人の人間としての顔が好きだった。
サシャもそんな彼の表情を知っているのだろうか。そんな彼の意外な一面を知ったら、心変わりするものなのだろうか。

「……シルヴィオ、無事に結婚できるといいね」

ぽつりと呟いただけの真澄の言葉に、ずるり、とオーバーリアクション宜しくシルヴィオが付いていた頬杖からがくりと崩れた。
恨めしく見上げる彼の顔は、こいつまた何を考えてるんだとでも言わんばかりに歪んでいる。

「は?」
「え、ごめん何でもない。まさかそこまで驚かれるとは思わなくて……ほら次、次!」

何故なのか理由は不明だが、心の中が変に焦っていた。
そんな感情を悟られなくて、真澄はすっかり手の止まってしまったシルヴィオを慌てて急かす。

きっといつかはこの世界とも別れる時が来る。
そう考えた上で見回した部屋とシルヴィオの横顔は、少し色褪せて見えた。
まさか、悲しい訳がない。今不意に現れて胸を締め付けた感情は違うのだと、強く自分に言い聞かせる。

いつか、いつかは変わってしまう。永遠なんて多分、この世のどこにもありはしない。
ぴらとまた無機質に差し出された紙を手にして、真澄はその紙を今の考えと共に廃棄用の箱へ投げ入れた。













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2008/02/06