Wellen -04 「あー!!」 真澄は我も敬意をも忘れて、ベッドの端に腰かけるガラヴァルを指差して叫んだ。 今頃現れるとはどういう風の吹き回しだ。 以前彼が急に姿を消した所為でシルヴィオに無実の罪を着せられたことを思うと、何よりもまず怒りが先に立った。 黒い髪は相変わらず長くて、まだ同じ年くらいの少年だというのに他人を凄ませるような威厳も健在だ。 ちらり、とこちらを見る彼の瞳は最初笑っていたが、しかし真澄が大声を出すとその黒い瞳はぎょっと見開かれた。 「ガラヴァル!」 「静かにせぬか!」 小さく囁くような、それでも強い語調で真澄を制すと、ガラヴァルは腰掛けていたベッドの端から億劫そうに立ち上がった。 真澄は怒られるのかと腰が引き気味になりながらも強気の姿勢を保ち続けた。ここで怯んだら負けのような気がした。 「この城の者はうるさくて好かぬ。今の国王も戦となれば血の気が多くなるからな」 しかしガラヴァルは怒りを露にする訳でも愛想を尽かす訳でもなかった。 ただふう、と溜め息混じりの言葉を呟いて、今は真澄専用となっている王室に似た部屋を見回しただけだった。 当ても無く部屋の中を歩き出したガラヴァルは、ふと大きな金縁の窓の前で立ち止まった。 彼の瞳には言わずもがな城の下部と王都が映っていることだろう。 そしてそれらの遙か向こう、地平線の向こうのどこかには、彼が今まで封印されていた森がある。 「成程な。この部屋なら安心だ」 安心とはいったい何のことを指しているのか。 窓の外を見て一人頷いていた彼は、しばらくしてから真澄へと向き直った。 「これから世は混沌の中に落ちる。真澄、そなたはどうするつもりだ?」 ガラヴァルが何を言っているのか分からなくて、思わず真澄は小首を傾げた。 世界が混沌に落ちてしまうのなら、何の権威も力もない一人の人間にはどうすることも出来ないだろう。 ガラヴァルは自分が非力な人間だと知っているはずだ。 さらに真澄はこの国では後ろ盾もない、使う言語でさえ元々は違う人間である。 それなのに何故彼がわざわざそんな質問を投げかけてくるのか、解せなかった。 「先刻、ラルコエドの第二都市ロゼリスが落ちた」 「ロゼ……?」 ガラヴァルは真澄が異国出身だということを思い出したのだろう、そこで一旦言葉を切った。 「地図を」 部屋を一周ぐるりと、何かを探すように見回したガラヴァルは、壁際にそびえ立つ大きな本棚に目を留めた。 本棚にはどれも鮮やかな、それでも落ち着いた色合いを残す分厚い本が所狭しと並んでいる。 ガラヴァルは本棚の方へすっと腕を伸ばすと、人差し指でくいと糸を引っかけるような手招きをしてみせた。 すると数多ある本の中から一冊の本が棚から滑り落ちて、宙の一点をふらふらと浮遊したかと思えば、物凄い速さで真澄の前の大きな机の上に突進してきた。 「……ふむ、まだ力が鈍っておる」 ぽつりと感慨深く呟いて手を握ったり開いたりしているガラヴァルさえ気に留められず、真澄は口を半開きにしたまま机の上の本を見詰めた。 驚く暇さえなかった。あまりの意外性に、手が自分の知らない所で小刻みに震えている。 ガラヴァルの力によってであろう勝手に突進してきた本は、今やまた誰の力も借りずにそのページを捲っているのだ。 真澄は次々に捲られていくページを漠然と見詰めながら、気付いた。 これはただの文献ではない。ラルコエド国と近隣諸国に関わる地図だ。 「我がラルコエドはここだ。分かるな?」 ガラヴァルがぱちんと指を鳴らすと、机の上のインク瓶に浸って休んでいた羽ペンが独りでに動き始めた。 羽ペンはまるで生き物であるかのように羽の身体をくねらせると、地図の上まで移動してそこでくるくると軽やかに踊り回った。 その差す先には「ラルコエド国」と筆記体で国名が書かれている。 いつの間にか真澄の横にはガラヴァルが腕組みをして立ち、同じく地図を覗き込んでいる。 ぞくりと背筋が震える。さっきまで少し離れた場所にいたではないか。次々に現れる怪異に、全身に勢いよく鳥肌が立った。 「ラルコエド城は見ての通り国のほぼ中央、王都にある。そして王都から北西へ進むと第一都市エルミーラ、更に北西へ行くと第二都市ロゼリス、最北には小都市コルネリアがある」 「は、はあ……」 「西の隣国は名をフロール国という、今回宣戦布告をしてきた国だ」 羽ペンの先はラルコエド国から、左隣の「フロール国」という名前の上に移って回り始めた。 ラルコエド国は大国であるらしい。ラルコエドの西の隣国であるフロール国は、ラルコエド国の半分以下の面積しかない。 地図内に見られる他の国の中でも、ラルコエドより大きい面積をもつと言う国は滅多に見受けられなかった。 だがそれ以上に気がかりなことが、さっきから頭の中に居座り続けている。 さらりと告げられたガラヴァルの言葉の一単語が不自然だった。真澄は横にあるガラヴァルの顔をちらと窺い見る。 「宣戦布告って、あの……宣戦布告?」 「そうだ。だから先程から口にしているだろう。最北の小都市は愚か、第二都市までもが敵の手中に落ちたと」 頭の中が石のようにすべて固まった。 ガラヴァルは事も無げに口にしているが、それはもしかしたら、話から推測するにフロール国に攻め入られていることなのだろうか。 「ラルコエド国は広い、兵力もある。だからと言って悠長に構えていると、いずれ敵は王都まで攻め来るであろう」 間違いない。ラルコエド国は今、戦争をしている。 何かを言葉にしなければと思うのに、唇が震えて何を話せばいいのか分からなくなった。 もしそのフロール国が勝利を勝ち取ってこの城まで攻めてきたりしたとしたら。 ラルコエド国の民で無いとは言え、今はこの城と国にお世話になっているのだ。捕まった後のことを考ると嫌でも惨状が目に浮かぶ。 本当に早く帰る方法を見つけなければ、このままでは命そのものが危ない。 きっとガラヴァルは戦に慣れているのだろう。 地図を見ながら何かを考え込むその表情からは、とてもではないが恐怖の色など見受けられない。 「数年前、ラルコエド国が戦の中にあったという話は聞いているか?」 「あ、はい」 「その時の敵国は今はラルコエドの一部となっている、元東の隣国ジルヴィラート国だ」 次から次へと、今度の敵は東の隣国だとは。 真澄はそれまで胸に抱いていた恐怖が小さなものに思えて、呆れた。 「勿論、大きな戦になったがな。当たり前だが両国どちらも譲らなんだ。だが特に奇妙だったのはジルヴィラートとの戦が混戦していた時、西のフロールは顔を出さなかったことでな」 「……どうして?そのフロールっていう国も参戦したら、もっと混乱するんじゃない?」 「大国とは言えラルコエドとジルヴィラートとは全面戦争だったのだ、ラルコエドも弱体化しておった。『隣国』や『友好国』と言う括りは表面上のものに過ぎぬ。例え手段が卑怯であろうが一国、ましてや大国ラルコエドを落とせば多大な富や領地が得られるのだ、戦に便乗しない手はない」 ガラヴァルは肩を竦めて心底嫌そうな顔をした。 「フロールが沈黙を守って当時は良かったのだろうが、ラルコエドが復興の兆しを見せた途端にこのざまだ。あの国王もかなり神経質になっているようだな」 「シルヴィオが?」 脳裏にシルヴィオの無愛想な顔が蘇る。 彼の神経質は今に始まったことではなく以前からではないだろうか、そう付け足そうと思ったがやめた。 「真澄、そなたはこの国に留まるのか?」 真っ直ぐ見詰められて、今までの流れからは考えられなかったあまりに真剣な言葉に、真澄は戸惑った。 留まるも何も、帰る手段がどんなに険しいものだとしても、あるものならとっくに帰っている。 この世界と元の世界とを繋ぐ扉はまだ見つからない。もしかしたら見つけようとしていないだけなのかもしれない。 ラルコエド国での生活が不便だと言うことはない。 シルヴィオも何だかんだ言って世話をしてくれる、毎日素晴らしい食事にありつけて寝る場所だって安全だ。 だが戦争に巻き込まれるのだけは何としてでも避けたい。 戦場では剣と剣がかち合い、それらは敵の身体を薙ぎ払う。きっとこの世界では絞首刑や斬首刑が当たり前のように行われているに違いない。 そんな荒れ狂う世界に、どうして意味もなく長く滞在し続けることがあろう。 そこまで考えて思考が止まった。今弾き出した考えがあまりに自分勝手なものだと思い知らされる。 分かっている。どんな理由を付けようと、所詮自己本位に過ぎない。 戦争を回避するために元の世界に戻るのか、それとも元の世界に戻る時に偶然戦争から逃れられたのだと見解を変えるのか。 「帰る方法が、分からないから……」 とにかく既成事実を無理矢理口に出して改めて、胸の中が寂寥で一杯になった。 泣きたくなったが泣いても事態がどう転ぶと言うこともないので、不覚にも零れそうになった涙をぐっと耐える。 やはり元の世界を思い出すと帰りたいと強く願ってしまう。帰りたいではなく、帰るのだ。 今はとにかくこの戦争が早く終結するようにと願う他ない。 甘えてはいけない。辛くとも吹っ切らなければ。 「己を保ち続けよ」 一定の低い調子で紡がれたガラヴァルの声に違和感を覚えて、真澄は顔を上げた。 だがそこに既にガラヴァルの姿はなかった。 いつもと変わらない、隣のシルヴィオと同じ造りの広い西洋風の部屋が真澄を取り囲んでいるだけだ。 初めて会った時もそうだった。どうしてガラヴァルは別れの挨拶もせずに姿を消すのだろう。 剣を持ち、それなのに魔術を使う彼はいったい何者なのか。服装からしてやはりラルコエド国軍の剣士の一人か何かだろうか。 しかし彼は今まで、十七年以上も封印されていたと言っていたではないか。 それなのにあの容姿、少なくとも十七歳以上だと言う計算になるが、それにしては若過ぎる。 益々どれが真実が分からなくなる。ラルコエド城の人間と言う人間に弄ばれているとしたら衝撃的だが。 真澄は何故か開いていた窓の鍵を閉めた。一枚の窓越しにはラルコエド城の下部と王都の穏やかな風景が広がっている。 自分とその風景とを隔てているのは脆いガラスだけだと言うのに、元の世界で無条件に与えられていた自由は、あんなに遠い。 BACK/TOP/NEXT 2007/12/01 |