Wellen  -03









慣れない手付きで、それでもようやく慣れてきた感触を確かめるように羽ペンを紙の上に滑らせる。
小さく細かな音が入り組んだ広い部屋の隅まで鳴り響く。

た、か、ぎ、ま、す、み。自分の名前とは言え異国語で書くとどうも不思議な感じがする。
中でも一番難しいのは「ぎ」だ。ラルコエドの言語で濁音のスペルは特に複雑で難しい。
しかし昨日の今日でこうもシルヴィオから命じられたことを素直に実行しているとは、何故か知らないが無性に泣けてくる。

かれこれ部屋に篭って自分の名前を練習し始めてから一日が過ぎた。机に向かいっ放しの姿勢もそろそろ限界だ。
前屈みに慣れた背骨を元に戻すために、真澄はぐっと腰に手を当てて身体を仰向けに反らせた。

「よし、ちょっと休憩」

大きな机上に広がる羊皮紙の上のただひたすら書き付けられた自分の名前の羅列。
自分で言うのもなんだが、ここ数日間での筆跡の上達は我ながら素晴らしいと思う。
上手く行けばこのまま古文書の解読まで辿り着けそうな気がする。誰かお世辞でも言ってくれようものなら、その気になってしまうだろう。

しかしそこで真澄の身体は大きく仰け反った姿勢のまま停止した。
そう言えば数日前、シルヴィオから再度スパイ疑惑をかけられた日、何故あの時に処刑場ではなく蔵書室に連れられたのだろう。ふと浮かんできた疑問は容易に消えてはくれなかった。

滑らかで綺麗なシルク地で覆われるこの腕を強く引いたシルヴィオの後ろ姿が、ふと目蓋の裏に蘇る。
思い返してみればこの頃のシルヴィオはあの時と同様どこかおかしい。
最初にラルコエド国に来た時と微妙にどこか、例えばそう、顔色などが違って見える。

「えーっと確か……異国の救済者がガラヴァル?あ、なんか違うけどそんな感じ」

シルヴィオのことをまだよくは知らないが、あの行動は一番不明瞭だ。
赤の他人に国の古い言い伝えを聞かせて、もしかしたら懐柔する気だったのだろうか。

異国、救済者、ガラヴァル。聞き慣れない単語ばかりだ。少しは未知の土地に飛び込んだ者に配慮をして欲しい。
そう、本来ならこんな窮屈な城で畏まった生活をするより、城下町で暮らした方が楽しいに決まってる。
真澄はふうと大きく息を吐いて、曲げていた背を元の位置に戻した。

「真澄」

ふと現れた声に一瞬固まってから顔を上げる。
気のせいだろうか。今、誰かに自分の名前を呼ばれた気がした。

熱心に自分の名前ばかり書いていたのが聴覚にも影響したのだろうか。
真澄はふっと口元に笑みを浮かべてから、首を横に振って椅子から立ち上がった。
やはり根の詰め過ぎはよくない。徹夜でテスト勉強をした時も、翌日の頭の回転速度の遅いことと言ったら無かった。

(……ん?)

真澄は立ち上がったそのまま、思わずその場に硬直した。
いつも寝起きを共にする天蓋付きベッドに足を組んで腰掛ける、一人の人間の姿が視界に入る。

宙をたゆたう長い髪に黒い瞳。どちらもこの世界では珍しいとされ、神の象徴と謳われている色。
他人がこの部屋にいる筈が無い。今まで侍女の一人も伴わずに名前の書き取りに励んでいた筈なのだ。
しかしそこにいるのは見間違いでもなければ幻影でもない。紛れもない、人間。

「無沙汰だな。相変わらずだ」

驚きを隠せない真澄に仕方ないと、まるで真澄よりも年上の者であるかのように笑んで見せる彼は、いつしか急に現れてはすぐに消えたガラヴァルその人だった。













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2007/11/24