Wellen -02 耳が痛くなるような沈黙と重々しい雰囲気の圧力が、今までに体験したことがないほど凄まじい。 広い部屋であるにもかかわらず壁を背に一列に並んで口を噤んでいる侍女たちの顔も、どこか心配そうにこちらを見ている。 見ているだけでなく、どちらかと言うとこの状況の中から助けて欲しいのだが仕方ない。 この城に使える侍女たちは、仕え主である王に逆らったら最後その首が飛んでしまうと言う。 仮にも王に近い秘書の身であるにもかかわらず、ことある毎に逆らっている自分の首が飛ばないのが未だに不思議なくらいだ。 しかしこれは逆らう、と言うよりはむしろ突っ込まざるを得ないだろう。 一枚の紙を手にしたシルヴィオはこの数十分間、眉間を皺に寄せたまま身動ぎ一つせずにぷっつりと黙り込んでいた。 「あ、あの……」 どこからそんな異常ともいえる集中力が湧き出ているのか気になった。 真澄はシルヴィオと執務机を挟んで対面する形で立っていたのだが、彼の考えていることなどまったく読み取れない。 「おい」 シルヴィオはそれまで伏せていた瞳を上げて、じろりと室内を見回した。 近くにいた真澄はもちろんのこと、数人の侍女もびくりと肩を震わせる。 いつもながら冷気を醸し出す彼の瞳の威圧感は凄まじい。 彼の次の言葉を、真澄と部屋に揃う侍女は今か今かと待ち構えた。 「お前、確かこいつの教育係だったな」 「はい。左様ですが」 シルヴィオから一番近い位置で俯いていた、真澄よりいくつか年上の侍女が顔を上げる。 「これ本当にこいつが書いたのか?誰か加担してるんじゃねえだろうな?」 「まあ、とんでもございません!」 侍女は心外だとでも言うように、過激なリアクションをしてみせた。 すっと前へ歩み出ると、冷気を出すシルヴィオと面と向かっていた真澄を庇うように手を広げる。 どうやらシルヴィオがずっと考えていたのは、紙に書かれた文字のことらしい。 提出用にと基本的なスペル、慣用句を習って書いてみたのだが、なにか気に食わないことでもあったのだろうか。 自分の横に立つ侍女にまで迷惑をかける訳には行かない。真澄はぐっと拳を握った。 しかし侍女は穏やかないつも通りの笑みを浮かべている。 それでも真澄は固く握ったままの両手を解こうとはしなかった。 「横一列のこの美しい筆跡、素晴らしいでしょう?真澄様はやはり相当な知識をお持ちの方のようで、まさか数日でここまで上達なされるとは」 おいおい、いったい何の冗談だ。 真澄は思わずこの侍女に突っ込みたくなった。 もしかして異国の雰囲気を出しまくる人間が、シルヴィオの手元にある文字を書いたと思えてもらえてなかったのだろうか。 いやしかし、気になったのはその点ではない。今この侍女は何と言ってくれたのだろう。 「あの……?」 「真澄様は秘書としての役目をお分かりになっています。そろそろあの膨大な書き取り練習の量を減らされても宜しいのでは?差し出がましいようですが、私共の総意でもあります」 シルヴィオは手元の羊皮紙からちらと目線を上げた。 その瞳には壁際に並んだ侍女たち一人一人の顔が順に映る。彼女達の顔には薄らと微笑が広がっている。 「お前たち、下がれ」 壁際に控えていた侍女はほっとしたように胸を撫で下ろして、次々に会釈してから部屋を後にしていく。 隣で説得してくれた侍女もシルヴィオににこりと笑んでから去っていく。 真澄は咄嗟に彼女の片手を取った。 この世界にもこの城にも一人だと思い込んでいたのだが、そうではなかったのだと思えて嬉しかった。 なんと伝えたらいいのだろう。この胸の異常な昂ぶりを。 「ありがとう、ございます!」 小さな、蚊の囁き程度にしかならない声で告げただけなのに、彼女は嬉しそうに目を細めて微笑んでくれた。 真澄にはその笑顔がまるで天使のように思えてしまった。 しかし天使の傍には悪魔がいたことを思い出して、すべての侍女がシルヴィオの部屋から立ち去ったあと、真澄は振り返るのをほんの少しだけ躊躇った。 悪魔というよりは魔王と言った方が適当だが、そう考えると本当に怖くなるので勘弁したい。 「シ、ルヴィオ」 彼に掛ける声がひっくり返りそうになる。 シルヴィオはどう思っているのだろう。さっきの侍女が言ってくれたように、筆跡は恥ずかしくない程度に上達したのだろうか。 何故かシルヴィオに見放されたくなかった。 今まで世話をしてもらった礼もあるにはあるのだが、見放された途端、この世界で生きられないという気さえする。 真澄が言葉を切って口を噤むと、シルヴィオが執務用机の上に肘を付いてはあと溜め息を付いた。 「お前の名前だ」 真澄は恐る恐る顔を上げた。いったいなんのことだろうか。 「……え?」 「二度も言わせるな。お前自身の名を覚えて恥のないよう書けるようになったら、城内の出歩きを許可してやる」 聞き間違いだと思った。 だが、じろりとこちらの様子を窺うために覗いたシルヴィオの視線は、本物だった。 もしかしたら本当に城内を自由に歩くことができるのだろうか。 真澄は思わず胸の辺りを両手で押さえた。 今日はなんて素晴らしい日なのだろう。胸の中が一気に温まって、いっそ涙さえ溢れてきそうになる。 「それ本当!?」 「……何回言わせる気だ」 「ううん。嬉しい!ありがとう!」 もしシルヴィオが男でなかったなら勢いよく飛び付いていただろう。 真澄は精一杯の笑顔を残してシルヴィオに軽く一礼した。途端に耳元でまたも二度目の溜め息が聞こえた。 さて、早く実行に移さないとあまりの嬉しさにスペルまでも忘れてしまいそうだ。 真澄は隣の自分用の部屋に続く扉をすぐに開けて飛び込んだ。 だが思い立ったように、また扉を開けてシルヴィオの部屋に顔を覗かせる。 シルヴィオは今も執務用の机の上に肘を付いて手元の書類を眺めている。 しかし真澄の視線に気付いたのか顔を上げた彼は、いつもとは違ったどこか呆けたような表情を浮かべていた。 「ねえ、シルヴィオの名前も書こうか?」 「余計なことはするな」 無愛想に吐き捨てられた言葉でさえ、今は胸の片隅をくすぐるようだった。 真澄はぷっと吹き出してから、シルヴィオとの部屋を仕切る濃いこげ茶の扉を静かに閉めた。 これから大仕事が待っているのだ。なんとしても上手く仕上げなくては。 後ろ手に閉めた扉にゆっくりと凭れかかる。 幸せだった。今はもうこれ以上の幸せは望まないだろう。 広い部屋の真ん中にある机の上に広がる羊皮紙が、まるで真澄を急き立てているようだった。 BACK/TOP/NEXT 2007/10/14 |