北の小都市コルネリア陥落。次に攻められるのは、間違いなくコルネリアの隣に位置する第二都市ロゼリスだ。 そこで彼らを食い止めなければ、ラルコエド国の中心部に位置するこのラルコエド城に達するであろう。 「……フロール国か」 いつの世も戦だ。つまらない考えを立ててはすぐに兵を編成する。 だがそれは勿論この国だって例外ではない。 数日前フロール国の使いが寄こした宣戦布告の伝書が苛立ちを更に募らせた。 面倒な戦いは嫌いだ。多くの人間が死ぬ戦はもっと嫌いだ。 この大国ラルコエド国に反するなら、二度と逆らえないようその息の根を止めてみせよう。 Wellen -01 窓の外ではなんと優雅な風景が漂っているのだろう。 風にそよぐ木々はまるで歌っているよう、時折聞こえる小鳥のさえずりと言ったら可憐な歌姫。 現実逃避が成功したのか、すべてが音楽に聞こえてきた。 できることなら自分も今すぐこの部屋の窓を開け放ち、歌のひとつでも披露してみせると言うのに。 何の歌がいいだろうか。ここは日本人らしく蛍の光、いや故郷を主張するためにあえてふるさととか。 そこまで考えて、真澄は黒いインクをつけたばかりの羽ペンを投げ出した。 本当に退屈だ。いや退屈ではないが、退屈に勝る退屈だ。 「ああもうなんてこと!」 真澄は悲劇のお姫様のように、失意と絶望を露にしてから広い机の上に突っ伏した。 机の上には何冊もの大きい本が広げられている。それらは真澄に押し出されてばさばさと床の上に雪崩落ちる。 途端に真澄の部屋にあるソファに腰掛けていた侍女たちは、「まあ」とか「あらあら」などと口にしながら、それでも驚いて立ち上がった。 どの顔もまだ若い、真澄より少し年上くらいの侍女たちばかりだ。 ああ、どうせなら異国語習得講座ではなくて日本語習得講座を開いてしまいたい。 「真澄様、いけません」 「シルヴィオ様に怒られます」 「……くっ、あの我儘国王め!」 手元にはさっきから失敗ばかりのラルコエド国の言語が羊皮紙の上でのた打ち回っている。 それらの文字は日本語とかなり違うのだと断言できるだろう。 なにせ見本として広げられている分厚いラルコエド国の本さえ、いくら説明を受けたところでまったく読めない始末なのだ。 それなのになぜ自分はいきなり異国の本の解読をやらされているのだろう。 あまりの無理難題に、すぐに真澄は侍女の一人に頼み込んで、とりあえずスペルから教えてもらうことにした。 「真澄様は知識の高い方だとうかがっておりましたので、いきなり古文書からでもいいと思ったのですが……」 道理で読めないはずだ。 日本の古典だってまともに解読できる訳でもないのに、もしや出鼻を挫く気なのだろうか。 「スペルと言いましても、なにからお教えすればいいのか……」 「参考書も初等のもので宜しいでしょうか?」 「むしろそうして下さい!ぜひ!!」 古文書は論外、初等以上の参考書は絶対に参考にならないだろう。 とりあえずまともな勉強ができることに、真澄はほっと胸を撫で下ろす。 ラルコエド国に来て今日でちょうど七日目、だが未だに帰るための方法は見つからない。 切り取った羊皮紙にチェックマークを付け始めて今日で七個目だから、ラルコエド国に来て七日目ということで間違いないだろう。 この七日間を城内で過ごして色々と学んだが、中でも一番の驚きは風習の違いだ。 一日は二十四時間で区切られているのがまだ親しみやすかったのだが、少なくともラルコエド国には一週間もなければ一ヶ月もないらしい。加えて四季もない、季節は殺伐としている。 一年に似たような大まかな区切りはあるらしいが、曜日の区別がなければよく分からなかった。 (まったく手に負えない……) 真澄はとりあえず羽ペンを拾って黒いインクを付け直した。 さっきから間違いだらけの言語が書かれた羊皮紙の片隅に、小さく「シルヴィオの馬鹿!」と書き付ける。 どうせこの世界にいる誰も日本語を読めはしないのだ。咎められはしない。 そもそもこの件に関して悪いのはすべてシルヴィオだ。 彼がこんなに大量の紙と多くの侍女を伴わせなければ、自分から進んで異国語を勉強しようとは思わなかっただろう。 数日前、シルヴィオは自分の家にいるかのように寛ぐ真澄を見兼ねたのか、大量の書類を送ってよこした。 書類と言ってもほとんどの紙が白紙のままだった。 いったい何事か。呆然とシルヴィオを見上げる真澄に対し、彼はふっと溜め息を付いた。 ―――秘書としての勤めだ。すぐにこの国の言語を覚えろ。 身を乗り出して反対意見を述べようとする真澄を制し、シルヴィオは偉そうに腕組みして言った。 ―――できねえなら即刻追い出す。いいな。 あの鋭い眼差しといい、上から他人を見下ろす仕草といい。 まったく油断しているとすぐにこれだ。ここしばらく大人しく部屋に篭っていると思ったら。 しかし、問題はシルヴィオの態度というそこではない。 英語でさえ短期間でペラペラ喋れるようにはならないというのに、この追加課題は痛手だった。というより、もはや戦意喪失。 羊皮紙の隅にさらに「シルヴィオの阿呆!」と書き殴りながら、真澄はぽつりと呟いた。 「もっと他の役職が良かったな。やっぱり、そう、メイドさんとか」 侍女ならシルヴィオにお茶出ししたり裏方で雑務をこなしていればいいのだ。 それか客人の接待役か。ラルコエド国で喋り言葉は通じるから、これらは恐らくなんの問題もないだろう。 そう言えばどうして喋り言葉が通じるのだろう。 これについて、真澄は今まで散々考えてきたのだが、特に思い当たる節は見当たらなかった。 もしかしたら天賦の才かも知れないと思ったが、生涯行くか分からない異国の言語を喋れたところでどうしようもないのも確かである。 真澄がだいたいそんなことを考えていたとき、部屋の扉がぎいと遠慮がちに開いた。 どうやら初等級の参考書を取りに出ていた侍女が部屋に帰ってきたらしい。 「スペルの参考書ですね。こちらになります」 「あ、ありがとうございます」 一冊の薄い本を手渡されて、真澄は手始めにぱらぱらとめくってみた。 見た目さっきより字数は少なくなった感じだ。これなら何とかなるかもしれない。 「侍女さんまでこんな分厚い本読めるなんて、この国って意外に識字率が高いのね。ビックリ」 普通侍女と言ったら、身分の低い女性が務めるのではなかっただろうか。 「ねえ、あたしも侍女の仕事できないかな。秘書じゃなくて」 「真澄様が……侍女に、ですか?」 突然の申し出に、真澄の部屋で勉強を手伝っていた侍女数人は驚いたように顔を見合わせる。それから彼女達はなにやら難しい顔をして考え込み始めた。 侍女と言う名目は秘書よりは簡単な役職だと思ってしまうのだが、それほどまでになにか障害があるのだろうか。 もしかしたらシルヴィオにその点を口止めされているのかもしれない。 それならすぐさま彼の元へ抗議に向かわなくては。真澄は内心構えながら、机の上に用意されていた休息用のティーカップを手に取った。 紅茶に似た茶葉がカップの中を漂っている。風味はどこかダージリンに似ているような気がした。 そうして真澄が一息付いていると、しばらく考え込んでいた侍女の内の一人が難しい顔をしたまま口を開いた。 「そうですね。真澄様の場合になるとよく存じませんが、私たちの場合にはいくつか試験がありまして」 予想外の発言を受けて、真澄はティーカップを危うく落としそうになった。 「試験!?試験って何!?」 「ええと、ラルコエド城で侍女として働くためには、まず専門の教育機関へ入らなければなりません」 さらに予想外の発言だ。さっきまでは感じられたティーカップの温もりさえ今は感じることがきない。 侍女は催促していないにもかかわらず、ペラペラと喋り出した。 「そこで必要最低限の教養を積み、確か期間は……何年でしたっけ?」 「三年ですわ。何やら思い出すだけで懐かしいですね」 「そうそう。毎日毎日文字の書き取りや礼儀作法をみっちり教え込まれるのです。本当に苦労致しました」 侍女たちの昔話に花が咲き始めた。 真澄は話についていけなくてそれでも先を聞きたくなって、頬を引きつらせながら相槌を打つ。 「へ、へえ。それで?」 「普通の貴族の城とは違ってラルコエド城は国王が住まわれる城ですから、特に優秀な者がそこから選抜されます」 「あ、侍女に貧富は関係ありませんの。専門教育機関で優秀な成績を修めれば、それだけで侍女と言う素晴らしい仕事が得られるのですから」 「ここにいる侍女の多くは平民ですわ。高貴な身分の方は逆に珍しいかもしれません」 しかしその専門の教育機関とやらを出れば、侍女と言う役職に就けるのだ。 ならばこんなに面倒臭い仕事ばかりの秘書なんてやってはいられない。 もしこのままラルコエド国にいることになって、ここで職も見つけなければならないとしたら、やはり秘書は体力的にも精神的にも辛いだろう。 特に秘書はシルヴィオという国王の直接の管轄下だ。苦労するのは目に見えている。 例え三年のブランクを経たとしても、侍女の方がまだ楽に決まっている。 「で、選抜されれば、侍女として働けるのね?」 だが聞いている限りでは、とてもではないが自分は選抜外の方に入りそうだ。 「いいえ。さらにその後―――」 「まだあるの!?」 いったいここにいる侍女はどんな難関を突破してきたと言うのだろう。 真澄はじっと周りの侍女の顔を凝視した。 まさかその後、さらに高等教育機関へというオチが待っているのではあるまいか。 そうなったら何としてでも元の世界に帰る方法を見つけ出すために脱走でも何でもするだろう。 頭の中でよからぬことを考える真澄の心中を知らない侍女は、しかし素晴らしい笑顔を浮かべながら自信満々に言った。 「選抜された後、城内で二年の実地研修を経て、ようやく採用されるのです」 「え、二年って……」 三年間の教育を受けた後に城での二年間の実地研修、それはつまり―――。 「侍女になるためには……五年かかるってこと?」 「ですがこれはエリートコースを歩んだ者の例です。普通は五年では侍女になれません。なんと言っても狭き門なのです!」 ラルコエド城の侍女への採用は某難関国立大学の入試にでも例えればいいのだろうか。 まさか呼べばすぐに参上する、城内に何百人もいる侍女がそんな狭き門をくぐり抜けてきたとは考えもしなかった。 真澄は手元の羊皮紙に視線を落とした。 どうやら秘書として機能するためには、シルヴィオ曰くまず基礎的な言語を覚えればいいらしい。 初等の参考書は真澄を嘲笑うかのように机の上に広がっている。 侍女と秘書、総合的に見てどちらが楽か。 人間は切羽詰った状況に陥ると、最終的な幸せより経過の幸せを取る傾向にあるらしい。 真澄は長考のあと、ぐっと羽ペンを持ち直した。 「……えーと、やっぱり侍女はやめておこうかなっ?さて、勉強勉強」 真澄のその一言に侍女たちも、ああそうでした、と取り乱したように慌てて、再度真澄の異国語習得講座に全力を尽くし始めた。 まったく喋り言葉だけではなく書き言葉の方もカバーしてくれればよかったものを。 真澄はラルコエド国に来るきっかけになった「なにか」に対して一応怒りをぶつけてみたが、やはり反応はなかった。 窓の外ではまだ小鳥がさえずって、木々が風にそよいでいる。 隣室のシルヴィオの部屋は一貫して静かだ。彼は今頃どうしているのだろう。 絶対に元の世界に戻ってやる。 スペルを練習する前に、羊皮紙の端に「シルヴィオの仏頂面!」と走り書きしてから、真澄は気合を入れて羽ペンを持ち直した。 BACK/TOP/NEXT 2007/08/09 |