Besucher  -04










青い空の中でぐんぐんと増長していく黒い点。
もはやそれは点と呼べないほどまでに輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。

(あのシルエットって、まさか……)

真澄は窓の鍵を閉めるよりも突然胸に湧いた恐怖に怖気付いて、思わず窓から後退してしまった。
と同時に、綺麗に磨かれた窓が外側から一気に押し開けられる。

長く宙を舞う黒髪、同じく黒曜石のように滑らかな黒い瞳。
ばちりと視線が出くわして、まるで金縛りに遭ったかのように体が強張って逃げようにも動けない。
空から降ってきたのはただの点ではなかった。それは紛れもなく生き物、しかも「少年」だった。

「エディルネ!!!」

鼓膜を突き破らんとする怒声がビリビリと伝わる。
悪いことをした訳でもないのに何故か罪悪感を感じる。幼い頃に叱られた時のように、体がびくっと反応する。

いや、自分は何も悪いことなどしていないのではないか。真澄が事の矛盾に気付いたのはそう遅くはなかった。
どちらかと言えば、この窓から入ってきたばかりの彼の方がよっぽど怪しいのではないか。

真澄がそう思い直して目を開いてみれば、尋常ではない違和感がそこにはあった。
目の前に立つ人間の衣服がひらひらしていてまるで中世ヨーロッパみたい?いやいやそれは既知の事実だろう。
なにか、なにかが引っかかる。衣服ではなくて、こうもっと、元いた世界では珍しいもの。

「……ん、そなた?」
「え、ちょ、待……っ!」

そのあまりの衝撃にすっかり腰が引けてしまったために上手く羅列が回らなくなった。
真澄は不自然の正体を遅れ馳せながら体感させられていた。

真澄の胸の先には真っ直ぐに、鋭く光る長剣が突きつけられていた。
しかもそれは微かに胸元のドレスの重ね合わせの部分に触れている。
一歩でも動いたら確実に串刺しになってしまうだろう。嫌な光景を想像して真澄は身震いする。

一方で、突然現れた、黒くて長い髪を持った少年は剣を突きつけながら訝しそうに真澄をじろじろと眺めている。
怖い。シルヴィオとはまた別の意味で怖い。

「そなた……見ない間に随分と様変わりしたようだが」

まだ若いというのに古風な喋り方をする少年だ。
場違いを承知の上で、真澄はふとそう思った。

「本当にエディルネか?魔力もさほど感じられぬ」
「……ち、違っ」
「何が」
「あ、あたし……違って、人違いです!」







「成程、そなたは異国の者か」

黒髪の少年はすべてが繋がったのかうんうんと強く頷いている。
長い髪は羨ましいほど綺麗に落ち着いていて、剣を抱えているその姿はどこかの剣士を思わせる。

しかし真澄は彼の正体が未だによく分からなかった。それに何故人間が空から降ってきたのかも不明のままだ。
とりあえず再度あの鋭利な剣を振り回されたくはなかったので、真澄がこの数分で彼から学んだことは、とにかく話を合わせておけ、というなんとも理不尽なことだった。

黒髪の少年は尚も押し開けられた窓の傍にどっかりと腰を下ろしている。そんな彼の前に真澄はドレス姿ながらも正座をしていた。
彼は恐らくまだ自分と同じか少し下くらいの年の頃に見えるのだが、どうしてか敬わねばならない気がしていた。

「はあ、お分かり頂けて恐縮です」

この少年につられて言語が改まっているが、そんなことを気にかけている暇はない。

「それにしても本当に良く似ておる。遠くから見たとき、我はてっきりエディルネだと思った」
「その、さっきからエディルネって……誰のことなんですか?」

言った瞬間、しまったと思った。
彼の眉間には今の言葉が原因であろう、くっきりと深い皺が作られていた。

「忌々しいことよ……。しかし長き時を経ても我は忘れぬ!エディルネはこの城の姫君だ!」
「え、姫ってことはシルヴィオのお姉さんか妹?」

少年は否定の証にふるふると首を横に振る。

「今はカスファ暦三十七年なのだろう。我があやつと競り合っていたのは十七年前、カスファ暦二十年以上も前のことだ」
「競り合っていた……って?」
「エディルネは女にしては珍しい魔力を持つ人間でな。しかしそれがどう影響したものか、我と出会うたびに魔術の比べ合いよ。あやつは魔術の使い手として相当長けていてな、我はここラルコエド国中心部から遠く離れた森の奥深くに封印されてしまったのだ」

話が急展開すぎて上手く飲み込めないのだが、辛うじて分かったのはそのエディルネという人は強いということだった。
しかし魔術が普通に語られるとは。もしかしたらこの世界は元の世界とかなりぶっ飛んでいるのではないだろうか。

それと真澄は彼の最後の言葉の意味も気になっていた。
少年はエディルネと言う姫に封印されたと言った。原因はこれまた闇の中だが、大方彼は何か悪事でも働いたのであろう。
神話や童話でよくそういった物語があったことを思い出し、真澄は少年の顔をじっと見つめた。

「まったく我をあんな薄暗い場所に封印しおって……。目覚めたらすぐに復讐をと思っていた」
「じゃあその、エディルネさんは今どこに?」
「先刻から探ってはいるのだが、あやつの気配が感じられぬのだ。エディルネは死したのかも知れぬ。この世は戦乱に満ちているからな。今生きていたら、とうに四十を越えた皺が気になる歳の女であろう」

かなり恨みが積もっているらしい。
彼の言葉の中に棘や嫌悪を感じるのはきっと気のせいではないだろう。

けれど真澄には、彼のエディルネへの言葉がなにか違うようにも思えた。
エディルネという女の人を気にかけているような、これではまるで―――。

「あの……ひょっとして、好きだったんですか?その、エディルネさん」
「何を申す!」

即答されて、思わず真澄は面食らった。

「あやつに惚れるなどという感情は微塵もない!封印されてまであやつの顔を思い出すなどそれこそ怖気が走るわ!それにあやつは人間で我は……あ、いや。すまぬ。少し興奮し過ぎたか」

彼は驚いたように目を丸くさせる真澄を見てようやく平常心を取り戻したようだった。
少し頬を上気させながら、ごほごほと数回咳払いをしてその場に再度座り直すと、ややあってから口を開いた。

「そなた、名は何と?」
「あ、高木真澄です」
「ほう。珍しい名だな」
「……異国って言っても、結構遠いですから」

確かにこの世界と元いた世界ではかなり遠いのだろう。物理的にではなくて精神的に。

「あの、ところであなた様のお名前は」

言葉がさっきよりもいっそう改まっている気がした。が、この際すべてがどうでも良くなっていたのであまり気に留めることはなかった。

「我か?我の名はガラヴァル、真澄は異国の人間だから知らないだろうが」

真澄は内心ふと小首を傾げた。
異国の人間は知らない、と言うことは換言するとラルコエド国の人間なら知っていると言うことなのだろうか。

それにガラヴァルと名乗ったこの少年は、先程の発言からするとどうやら魔術も使えるらしいし一度見せてもらいたい。
真澄が浮き立つ好奇心を抑えながら更に深く彼の家や生い立ちを聞こうと口を開いたとき、突然部屋の扉が大音量を残して開いた。
そこにはたった今駆け込んできたと言わんばかりの、眉間に皺を寄せた凄まじい形相のシルヴィオが立っていた。

「真澄!お前、今誰と会話していた!?」
「……は?」

真澄は突然のシルヴィオの来訪に驚きながら、当然のように目の前のガラヴァルを指差す。
いや、結局は何もない絨毯の上を指差してしまっていた。

「あれ?」

部屋の中からガラヴァルの姿は忽然と消えていた。
真澄はただ一人、広い部屋の中の窓辺近くにぽつんと正座のまま座り込んでいた。

いつの間にか窓が大きく開いていて、そこからびゅうびゅうと風が吹き込んでくる。
絨毯にはどこから舞い込んだのか一枚の黒い羽が静かに落ちている。
ここにいたのは誰だったのか。ガラヴァルと言う少年は自分が創り出した幻だったのかそれとも現実だったのか、見当も付かなかった。













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2007/03/08