久し振りに勇壮なあの姿を、威厳のあるあの声を思い出した気がする。
どこからかふと、戦地特有の鼻を突くような砂埃の臭いが蘇ってくる。

まだあの時、自分は十五歳だった。









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カスファ暦三十四年、ラルコエド国は数年振りに戦と混沌に満ちていた。
既にラルコエドは世界に大国として認知されつつあったが、そこに待ったをかけるようにして攻めてきたのは東の隣国だった。
世界の人々はラルコエドが勝つものばかりと思っていた。しかし東の隣国ジルヴィラートは、思いのほか強かった。

戦争はラルコエドとジルヴィラートの両国を戦地に変えて長期に渡り続いた。
兵は長期戦のせいか次第に肉体的にも精神的にも疲労するようになり、ある戦地では敗走さえ見られるようになった。

このままでは大国と謳われたラルコエド国が負ける。なんとか士気を高く保ち続けなければならない。
そこで取られた策が、当時ラルコエド国王であったクラウスの出陣だった。
猛者として称えられていた国王が戦に出るとあれば、兵の覇気も上がるだろうと見込んでのことだった。

「行ってくる」

夭逝したためにたった一枚しか描かれることのなかった肖像画の中で、彼、クラウスの妻は微笑んでいる。
戦に赴く時には必ずこの肖像画の前で瞑想してからというのが、クラウスの習慣になっていた。
数年前にどこか別の国へと召された彼女は、昔も今も変わらずに額縁の中で薄らと笑みを湛えたままだった。

クラウスの覚悟は決まっていた。
もはや敵の軍はラルコエド国中枢部まで攻め入るという要所まできていた。ここで仕留めなければ国の未来は無い。
またここに戻ってくる、そう肖像画の妻に言い残して、クラウスは自室を出た。

「父上!」

いつからそこにいたのだろうか、クラウスが廊下に出た時、待ち伏せでもしていたかのように廊下には一人息子のシルヴィオが立っていた。
クラウスは途端にそれまでの厳しい顔を捨ててシルヴィオに笑みかけた。

「今回お前は来るな。いい戦だがな、これは少し酷だ」
「承知しています。ですがわたしにも供をさせてください」
「駄目だ。お前は城でこの戦の一部始終を記録していろ。この前の戦で右腕を負傷しただろう」

そういった瞬間のシルヴィオは、なんとも決まり悪そうなバツの悪い、複雑な顔をした。
確かにシルヴィオは右腕に怪我を負っていた。
彼の二の腕には今も傷跡を隠すかのごとく、白い包帯がこれでもかと言わんばかりにぐるぐると巻き付けられている。

シルヴィオのこの傷は、まだジルヴィラートとの戦争が激化していたときに戦地に赴いて、そこで敵兵に切り付けられたものだった。
恐らく腕にはまだ痛みが残っているだろう。
それと傷口が塞がり切っていない内に戦に出して、取り返しの付かないことになれば大変だった。

クラウスの後継は彼一人だった。それに、だんだんと強くなっていくシルヴィオをここで温存させてもおきたかった。
しかし当の本人であるシルヴィオはそんなことなど微塵も気にかけていないらしく、すぐに表情を引き締めると口を開いた。

「次期国王になる者として参りたいのです」
「そう言ってもお前にはまだまだ先の話だ。わたしが座に就いている限りな」

クラウスはそう冗談めいて笑って見せた。が、シルヴィオの顔から緊張が解けることはなかった。
どうやら今回ばかりは齧りついてでも付いてくる覚悟であるらしい。クラウスは溜め息にも似た吐息をついた。

「……傷口はどの程度塞がった」
「ほとんど治りました」
「嘘じゃないだろうな?」
「本当です。医師のアネル先生もあと少しで動くようになると」

動かないのでは剣さえ持てないではないか。
クラウスはここでシルヴィオをやはり城で待機させようと思ったが、目の前の彼の真剣な顔を目にした時、あっさりと折れた。
この頑固さはいったい誰に似たのだろう。そう考えて、ふと妻の笑顔が脳裏に浮かんだ。

「動かないのなら治ってないだろう。だが……仕方ない」

クラウスはゆるりと窓の外を見やった。
地平線の彼方では濛々と砂塵が舞い上がる。戦場は今や王都に近付きつつあった。

「時間がない。支度をしろ、すぐに出陣だ」







予想以上の激戦だった。ジルヴィラート国が攻めてきたと彼が始めて耳にしたとき、負け戦のつもりなのかと疑った。
しかし数ヶ月前のラルコエドとジルヴィラートの国境で起こった戦で自ら戦地に立った時、彼は敵の強さにただ圧倒された。
なんとかその戦地では勝利を収めたが、その代わりに右腕を負傷した。傷口は今でも疼いていた。

自分の故国が負けるかもしれないという危機感にも似た焦燥が全身を襲うようになったのは、それからだった。
ゆえにシルヴィオは、この決戦だけはなんとしてでも自分の手で終わらせたいと思うようになった。

ジルヴィラート国は最後の足掻きとでもいうのか、大量の兵をラルコエド国に送り込んだらしい。
それは驚くべきことに、大国として君臨しているラルコエド国の軍勢と同じ規模を持っていた。
ここで終わらせるのだ。シルヴィオは自分自身に強く言い聞かせた。それは誰にとっても同じことだった。

昼を過ぎた頃、開戦を告げる角笛が両国軍から吹き鳴らされる。そうして戦いの火蓋は切って落とされた。
ラルコエド国の外れにある荒野の上が戦地へと変わった。数多の剣と剣とが雄叫びと共にかち合った。
各々の兵の足に纏わり付くように砂塵が舞い上がる。しかしそれでも人々は互いに怯むことなく攻め込んでいく。

「道を開けろ!」

猛者のクラウスを一歩でも前へ。敵の主将の首を取るために早く前へ。
ラルコエド国軍は血路を開くため、己の命も厭わずに敵の中へと勇ましく飛び込んでいく。

シルヴィオもクラウスの後に続き、馬の背に跨りながらも長剣で目の前に現れる敵の身体を薙ぎ払う。
しかし今までこんなにも多くの敵を相手にしたことがあっただろうか。敵兵は絶え間ない川の流れのように、次から次へと飛び出してきた。

切っても切っても人の波は絶えることがない。シルヴィオはチッと小さく舌打ちをした。
この時ばかりはあまりにも敵が多すぎた。それに加えてこの勢いの付きようは、止める術さえないように思われた。
さっきまでその背を追っていたというのに、いつの間にか戦いの中に紛れたクラウスがどこへ流されたのかさえ分からなかった。

「……邪魔だ」

利き腕の右腕はもはや使い物にならなかった。しかし戦場の真ん中に飛び込んでまで戦わない訳には行かない。
シルヴィオは咄嗟の判断で、普段は使い慣れない左に剣を持ち替えた。

左手で剣を使ったことはあまりない。
だがシルヴィオはこれでも幼い頃から次期国王にと日々剣術などを叩き込まれてきた。少しは剣の腕に自信があった。
シルヴィオは激しく上下する馬に跨りながら、目の前に次々現れる敵をかわし、薙ぎ払い続けた。

「父上?」

その時、ちら、と、シルヴィオの視界の隅に見失ったはずのクラウスの姿が飛び込んできた。
シルヴィオは思わず馬の手綱を引いて、そちらへ加勢に行こうと馬の向きを変えた。
しかしそこではまたも敵が波のように自分目がけて押し寄せてきた。

加勢に行きたいのに行けない。歯痒い思いだったが、まずは目先の敵に集中しなくては身動きが取れないこともあった。
シルヴィオは仕方なく己の周囲に集まってきた兵を散らすために集中しようとした。
しかしその「集中」は、数秒後に呆気なくぷっつりと切れた。

その時に見た映像は、数年が経った今になっても細部まで思い出すことができる。
猛者と崇められていた国王のクラウスが、突然現れた多くの敵兵に囲まれ、四方から一斉に槍が突き立てられる光景は絶対に忘れられないだろう。

鎧に身を固めていたはずなのに、ふらりと、まるで抵抗を忘れた人形のようにクラウスは馬から地へ落下していく。
その姿を偶然見てしまった自分は、なぜか自分ではないような気がした。
これは夢なのだ。違う、これは現実だ。心の中で葛藤する自分の声を聞きながら、周囲の風景はクラウスだけを取り残してすべて消えた。

信じたくもなかった。
猛者が一端の敵兵ごときにやられる訳がない。そう思ってはいるのに、喉が焼けるように熱くなった。


「父上!!」


びく、と右手が小さく痙攣した衝動で、シルヴィオははっと白昼夢から醒めた。
シルヴィオの周囲の風景は数年前の戦場ではなく、ラルコエド城にある自分の部屋へと戻っていた。
古傷が息を吹き返したのか、右腕が小さく疼いているようだった。

あの決戦の後のことは、よく覚えていない。
ただ自分が気が付いた時には、辺りは閑散としていた。さっきまで凄まじい顔付きで戦っていた人々は皆、気が抜けたように辺りを歩いていた。

ぼうっとして回転の遅い頭でも理解できたのは、戦はラルコエド国の勝利で終結していたということ、相手国の兵の半分をほぼ自分一人で倒していたということだった。
ジルヴィラート国との戦争は、皮肉にもこの戦場が最後になった。

―――シルヴィオ様、素晴らしい!
―――今回の勝利はシルヴィオ様のお陰です!

左手に収まっている剣は、既に変色し始めている血がこびり付いている。
息は何故か荒くなっていた。乱暴に乗り回していた馬も、どこで置いてきたのか忘れた。

ラルコエド国の王都郊外の平地はどこまでも平たく殺伐としていて、時折あちらこちらで砂塵が舞い上がる。
そんな殺風景な風景を漠然と見つめていたシルヴィオは、ふと遠くにジルヴィラート国の兵の塊が足取りも重く移動しているのを見つけた。
そのまま視線を反対側へと向けてみれば、戦に勝ったというのに厳粛な雰囲気の人々の塊があった。

なにがあるのだろう、と思った。
いや、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。それなのにどうしても、その時の自分は認めたくなかったに違いない。

シルヴィオはゆっくりと、それでも確実にその塊に近付いて、ラルコエド国の兵たちによって中央に拝されている姿を認めて、途端に視界が真っ白に塗り潰された。
苦しくて息が出来なくなって、胃の中に鉛が喰い込んできたかのようだった。
指一本、睫毛一本さえ動かさない仰向けの、まるで寝ているような国王の姿が、痛々しかった。
父上、と呼びかけたかった。しかし声が喉に張り付いてしまったらしく、出なかった。

この日を境にシルヴィオは一国を担う役割を背負った。
だが飛び抜けて歳若い王の着任でもない。どこかの国ではわずか十歳の王がいるとも聞く。

けれど何度後悔しても悔やみきれない。周囲の人間は、自分があの戦争でのことを吹っ切れたのだと思っているが、そんなことはない。
あの時、もっと自分に力があったら、今の自分があの戦場に立っていたなら―――。

「シルヴィオ様」

シルヴィオの考えを遮るように執務室の扉がきいと音を立てて開いた。
その向こうに立っていた侍女の一人が、すっと軽く辞儀をする。

「城前にフロール国の使いが目通り願っているようです。いかが致しましょう」
「フロールか。いいだろう広間に通せ。すぐ行く」

どこへ行けばいい?何をすればいい?
数年経った今になっても、分からないことは分からないままだった。

教えて欲しい。誰か、誰でもいい。
闇の中に埋もれてしまった未来に、どうか、光を。













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2007/04/13