綺麗な匂い









綺麗な匂い、っていう言葉があるのかどうか知らないけれど、この人の雰囲気を表すにはぴったりな言葉だと思った。
クロエは彼の前に多少荒く注文の品を置いたあとで、周囲の視線が嫌と言うほどこちらに突き刺さってくるのが手に取るように分かったので、彼と対峙するボックス席の空いている側に仕方なく腰かけた。

店のオーナーや他のウエイター、そして店にいる数少ない客までが発するこのドギツイ視線の意味は分かっている。
この見るからに怪しい「よそ者」の素性を暴き出してこいと、オーナーから料理を手渡される時にアイコンタクトまで送られた始末だ。
しかし自分には女の色香などこれっぽちもない気がするのだが。クロエはトレイを脇に置いて嘆息した。

「……ええと、これは?」
「オムライス。さっきこの黄色いものが食べたいって言ったじゃない」
「ああ、そうですよね」

へらへらと笑う彼の顔を見てどこかイラっときたが、曲がりなりにも客だ。クロエは辛うじて怒りを抑えた。
小さい店に唐突にやってきた「よそ者」は、周囲の視線も自分の視線をも総無視してオムライスを物珍しそうに口に運び始めた。

この地域ではあまり見ない容姿だ。クロエはこのときだけ失礼と言う単語を宙に放って、「よそ者」の顔をまじまじと見つめた。
脱色でもしているのだろうか。髪は毛先まで太陽に透き通るかのような茶色、と言うべきは黄色をしていた。こういう色をなんと言い表したらいいのだろう。
メガネをかけていることから遍歴の学者か、いやそれとも単に視力が悪いのか。

しかし、最初に彼から感じた「綺麗な匂い」は、彼の前にいる方が余程強く感じられた。
年頃の娘がこんなことを言うのも変に思われるかもしれないが、クロエは香水と言う代物は大がつくほど嫌いだった。
あのむせ返るような香り、と言うよりは強烈な匂い。貴族たちだけでなく娼婦までもが挙ってありとあらゆる色々な匂いを漂わせているのにもほとほとうんざりする。

だが人生で一度だけ、それらの香水と比にならないような清々しいと思う香水に出会ったことがあった。
むせ返るだなんてとんでもない。むしろそれでむせ返ることが失礼ではないかと思うほどだった。
こんな香水だったら街を漂ってもいいのではないか。クロエの香水に対する考えはここで、一八〇度とは行かないまでも多少は変わった。

クロエは数年前に嗅いだその匂いのことを、彼の顔を見つめながら漠然と思い出していた。
ちょうど彼の雰囲気を、その「綺麗な匂い」と称したくなる。もしかしたら彼もなにか香水をつけているのだろうか。

「そんなに美味しい?」

いっそがっつくと言う表現が似合いそうなほど彼がオムライスに夢中になっているので、クロエはだんだん本当に心配になってきた。
なにが、と問われれば彼の今までの食生活がだ。
変な色の髪を持つ彼は、クロエの一言にぴくりと反応するとそこでやっと手を止め顔を上げた。

「こういう物を食べるのは初めてなんだ。とても美味しいよ」

彼はお世辞とか社交辞令とか、それらの類の言葉を一切知らないのではないか。
クロエは自分が作ったわけではないのに、真正面から直球で美味しいと感想を述べられて、何故だかひどく照れくさいようなそんな気がした。

「本名、なんて言うの」

オムライスを次から次へと口に運ぶ彼に、照れ隠しのつもりで吐き出した台詞はやはり無愛想だった。
再びオムライスを食べることに没頭していた彼は、今度は口をもごもごさせながら、それでも顔を上げた。

「え?」
「本名。さっき『エド』って言ってたけど、あれって略称でしょ?」

今は別の客に支えられて店を出て行ったが、ほんの少し前まで店内にはかなり酔っ払ったジイサンがいた。
オムライスにがっつく彼、エドと言うこの見るからに怪しい若い男は入店するなり案の定このジイサンに絡まれ、しかし唐突であったにもかかわらずジイサンと談笑しつつ聞かれた質問には答えられることだけ答えていた。

どこから来たんだい? あんた、仕事は?
まず髪の色が違う。瞳の色も滅多に見ない透き通った翡翠色をしていた。
そんな「よそ者」に近寄っていったジイサンはある意味勇者だった。ジイサンが繰り出す他愛もない質問に彼は一貫して曖昧な返事をしていたが、すべてをそれで通すのも気が引けたらしく、話の途中で苦笑しながら名乗った。

――エド、って言うんです。

この瞬間、店内にいた数人の客とオーナーにウエイター、それとただ一人のウエイトレスはこの男の名がどうやら「エド」なのだと知った。
そしてエドと言う名のこの「よそ者」がいったい何者なのか、激しく興味をそそられたのである。
だがここで名誉のために記しておくと、クロエだけは彼に無頓着であったと誓ってもいい。なにせ彼女は今後の生活難に際し、もう一つ仕事をかけ持ちするか否かで悩みに悩みぬきながらカウンターテーブルを拭いていた。

だからここで彼の本名を知りたいと思うのも己の使命のためなのだ。クロエは自分自身にそう言い聞かせた。
未だに他の客やオーナーたちのこちらを盗み見る視線が痛い。きっとその重圧の所為なのだ。

「知りたい?」
「多少は」

オムライスを食べる手が止まった。エドはやおら含み笑いを漏らして面白そうな表情を浮かべて、うーんと唸ってから宙に目線を泳がせる。
するとすぐに誰にも悟られないよう胸の前でちょいちょいと人差し指で合図をしてきたので、クロエは眉根に皺を寄せながらもテーブルに身を乗り出した。
そうしてエドはクロエの耳元でこっそり己の名を囁いた。

「エドゥアール・ド・カルティエ」

クロエは自分の耳元から離れ行くエドの顔を恐る恐る見やった。
フレーム越しに見える彼の翡翠色の双眸が、可笑しそうに笑っている。

(ド・カルティエ……!?)

ここで素っ頓狂な声を上げなかったことが未だに不思議なくらいだ。
カルティエと言えばこの国や近隣諸国に生きる者になら言わずと知れた、この国を統べる王家の名前である。

カルティエ王家は代々滅多に人前に顔を見せない一族である。
こんな王もいるのか、といつしか異国の旅人が感心するように呟いていたことから、クロエはそれがすごく珍しいことなのだと知った。
彼らのことを陰気くさいと言う人間もいる。国民に向けての国王からの宣言などは国王の側近や大臣が代理で務めるほどだ、無理もないだろう。

(ちょっと待って。今エドゥアールって言った? エドゥアール、エドゥアール……)

クロエは途端に眩暈と頭痛を覚えて、額を右手で押さえながらぶつぶつと今聞いたその名を繰り返し呟いた。
どこかで聞いたことがある、が、思い出せない。喉の辺りまで出かかっているのだがいったいどこで聞いたのだったか。
しかし改めてテーブルを挟んでなにやら面白そうに笑んでいるエドの顔を見たとき、呆気ないと感じるくらいに思い出せた。

(まさか、この男が長子!?)

今度こそ完璧に思い出した。
陰気な王家カルティエ家、次期国王候補は変わった長男エドゥアール、不憫な次男はアルノルフ、そしてか弱い姫のジョセフィーヌ。

うっかりでも王族に知られれば最低でも最高でも死刑台に強制送還だろう。
街に住む平民の子供の間では、誰が作ったのかそんな皮肉めいた歌がこっそりと流行している。
道理で聞き慣れていて思い出せないはずだ。クロエは心の中でしみじみと首を縦に振って納得した。

所謂性質の悪いわらべうたとでも言えばいいだろうか。
無論生まれも育ちもこの街出身のクロエは、その歌を口ずさんだことを数え上げればキリがない。

「……それ、本当に?」

こっそりと声を潜めて質すと、エドはすっと人差し指を口元に持ってきて笑みを浮かべた。
これが夢ならいい。夢で終わってくれ。
クロエはすっかり荒んだ心で、何故その次期国王候補のお偉いさんが正体を隠してまでこんな街中の錆びれた小さい店に立ち寄ったのか疑問に思った。

しかしこのときのクロエの心中を占めたものはとてもつもない後悔だった。
次期国王様の注文の品をあろうことか乱雑に扱い、おまけに言葉遣いは馴れ馴れしいときた。
これはまさかこのまま死刑台に直行と言う事態では――ああ、吐き気がする。クロエはすっかりテーブルに肘を突いて項垂れた。

エドはまたオムライスを食べることに専念し始めたらしい。
彼はそれから一言も漏らさずに大皿のオムライスを綺麗にたいらげると、その勢いでコップ一杯の水を飲み干してから、開放的で清々しい笑顔を見せた。

「やっぱりね……」
「え、なにが?」
「匂いよ、匂いなの。だって綺麗なんだもん。やっぱりね、とってもオエライ王家の方々は然るべき場所にいるからそうなんだわ……」

テーブルに突っ伏したクロエの自嘲的な言葉に、エドはぷっと吹き出して笑った。
とてもじゃないけど意味が分からないね。仕舞いにエドは腹を抱えて笑った。

「綺麗な匂いなの」
「へえ?」
「すごく清々しくて、気持ちのいい匂いなの。あんたからはその匂いがするの」

今まで胸の内に溜め込んできたイライラが次第に表面化してきて、言葉の最後ではすでに投げやりな口調になっていた。
クロエの言葉に店内の人間の不思議そうな目がこちらを振り返った。

しばらくは気づかなかったのだが、クロエがようやくの思いで顔を上げたとき、エドは何とも間抜けた顔をしていた。
まるで鳩が豆鉄砲を食ったかのような呆気に取られた顔で、クロエも「は?」と思わず呆気にとられたほどだった。
だがこちらの視線に気づいたエドはすぐに表情を、元のなにを考えてるか分からない顔に戻すと、笑った。

「一緒に、来ますか?」

唐突に紡がれた笑い声混じりのエドの言葉が、すっかり項垂れていた頭越しに聞こえた。
どこへ、とか、なんのため、とかの重要な部分が抜けていたにもかかわらず、クロエは瞬時にその言葉の意味するものすべてが分かった。
それでも最初は驚きに一瞬目を見開いてから、ハッと嘲笑って再びテーブルに肘を突いて顔を伏せる。

「……行かない」

このとき何故「行けない」ではなくて「行かない」と言ったのか、自分でも分からない。
ただきっと、そこにはなんらかの意地とか張り合い的な気持ちがあったのだろうと思う。

まったく、これだから上にいる人間は嫌いだ。金さえあればなんでも手に入ると思っている。
クロエは酔っ払いの素振りで、例えて言うならあの果敢なオジサンのように、狂った笑いと共に嗜めるかの如くエドに人差し指を向けた。

「なんでも手に入ると思ったら大間違いよ。あんたたち王家はどうだか知らないけど、せいぜい私たち下に住んでる人間を舐めないことね」

こうなったら散々悪態をついた上で死刑台に送られてやる。
そう思って口にした言葉は自分でも寒気を感じるくらい刺々しかった。

「それは残念ですね」
「連れて行くならそこら辺の露出の激しいオネエサン連れて行きなさいよ。きっと満足すると思うわ」

娼婦のあのキツイ香水の匂いを思い出して、うんざりと顔を曇らせながらクロエは言った。
しかしエドはその言葉にさえ苛立ちを覚えていないらしく、いかにも次期国王の寛容さを有していると言った風にあっけらかんとしていた。

「さあ? あなたのように珍しいことを言う人でなくてはダメだと、思わないんですか?」

正気で言っているのかこの男。
クロエはまた鼻で軽くあしらった後で乾いた笑いを漏らした。

さすがわらべうたに「変わった長男」と歌われていただけはある。
平民の娘を城に招こうなど、普通は考えない。こんな辺鄙な街に下りてくるのも彼の習性なのか、いっそ呆れる。
それに王家の人間に玩具のように扱われる人生なんてまっぴらごめんだった。

「思わないわね」
「それは残念ですね」

先程と同じ台詞を口にして、エド自身もまた小さく笑った。
その表情がとても王家の人間とは思えないほど人間染みていたので、クロエは一瞬、彼は次期国王候補などではなくて自分たちのような一般人なのだと思ってしまった。
きっとカミサマは間違ってエドと誰かの運命を入れ替えてしまったのだ。だからに違いない。

これ以上彼から真実を聞きだすのも徒労だろう。
クロエはテーブルの上に肘を突きながら、店の窓の外を見て物思いに耽っているエドの横顔を見詰めた。

(変な次期国王サマだこと……)

やはり彼のものなのだろうか、綺麗な匂いはまだ続いていた。













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2008/04/22